一ノ瀬正樹氏の『「いのちは大切」、そして「いのちは切なし」―放射能問題に潜む欺瞞をめぐる哲学的再考―』という論文を読み、私なりに思うところもあったので私自身の反原発に対する考えを連ねつつ、この論文について少し論評を加えてみたいと思います。
 
 私は3.11を経て原発に関しては否定的な考えを持つに至っております。ただ、この原発に対して反対する考えというのを省みると、私の場合は原発そのものへの反発というよりも福島第一原発の事故を通して反原発運動へのシンパシーを持つに至ったという方が正確かもしれません。
 3.11以前にも反原発運動なるものがあるのはたしかに知っていました。個人的な体験として、高校を卒業してすぐたまたま知り合ったヒッピーの方々が「明日から六ヶ所村行くんや」とお話しされていたのを直接聞いて、六ヶ所村の核施設の前で黒装束で抗議をしていたのはこの人たちだったのかと驚いたこともあります。なによりRCサクセションのファンでしたので『COVERS』が原発のメーカーでもある東芝と関連のある東芝EMIから発売されなかったことも目の当たりにし、原発業界のほの暗い雰囲気も感じていました。そんなこともあって3.11までも「どちらかといえば(原発には)反対かな」と漠然と思いながら、しかし他方でなぜか彼らの主張は極端なものにも映りました。結果的には「原発事故は起こり得ない」という体制側のプロパガンダにやられていたことになります。「原発には反対だが、かといって事故が起こることもない」というどうしようもなく冷めた考えで過ごしてきたわけです。
 しかしいざ3.11の地震と津波でフタが開いてみれば反原発の活動をされていいた方々が言ってた通りのシナリオで事態が進んでしまった。稼働していなかった4号機の加熱や建屋が爆発する事態に至っては反原発の方々をしても予想以上の事態ではなかったでしょうか。
 そのような現実を目の当たりにして、反原発運動家の主張を知っていながら、彼らと直接ふれあう機会がありながらも根拠なく「かといって事故が起こることもない」と冷ややかな目で反原発活動を見ていた自分自身を恥じるしかありませんでした。
 
 無責任といえば無責任ですが、原発の技術的な要件に関しては私個人として判断をし難く、反原発活動家の方の話か体制側の話かどちらかを信じるしかありませんでした。今となれば福島第一原発での事故発生以来、現在からさらに未来に至るまで、放射能での被害はもちろん、社会的、心理的な諸問題が反原発活動家の方々が予想していたようなシナリオの通りに事が進むのを見みるにつけ、要するに「原発がなければよかった」のだと思わざるを得ません。原発の建設は電力需要や環境問題とのトレードオフだから不可避であったという話もあると思いますが、たとえば有馬哲夫氏の『原発・正力・CIA』を読む限りでは原発は何より「原発を導入する事」を目的に不自然な積極性をもって導入された様子でもあります。電力需要や環境問題のことは後づけで原発導入の理由にされたという印象です。資源がない中あらゆる手を尽くした末の策として必要に駆られて原発が導入されたというわけでもないとも思え、その辺りを鑑みれば福島に原発がない世界というパラレルワールドも想像できないわけではなく、ならばかの事故も避ける事ができたのではないかと思えるのです。
 もちろんそんなパラレルワールドは無いモノねだりではありますが、少なくとも原発の危険性を予見して警告を発していた人は居たということを悔恨の念を持って確認しておきたいと思っているのです。
 
 以上私の考えを述べた上で『「いのちは大切」、そして「いのちは切なし」―放射能問題に潜む欺瞞をめぐる哲学的再考―』を読んでみようと思います。
 
 全体的な論調を評価すると「放射能問題」を扱うという体裁を取りながらも、反原発運動を「事故後一部で急に生じた反原発運動」と「一部で急に」とのいやみをつけて表すことから見えるように、反原発的な世間の風潮への対抗として書かれた、哲学的というよりもむしろイデオロギー的な文章だと見ました。それはこの論文の中で単なるご自身の考えでしかないことを度々「自明のこと」と強弁しておられることからも感じます。
  
 「3 震災関連被害」の項ところに『CF1 「もし東日本大震災が起こらなかったならば、3.11後の放射能問題は発生しなかっただろう」』とあります。この問いの中においてはそ「発生しなかった」かもしれませんが、そもそもこの問いの中に震災と放射能問題を同一視する甘えが見えると思います。原発設置時の約束では震災があろうと津波があろうと絶対に原発事故は起こり得ず、万が一事故が起こっても幾重にも安全対策がとられており、メルトダウンや大規模な放射能災害がおこることはないという約束だったのではないでしょうか。それを思えば震災および津波災害と原発事故は別の問題と考えるのが妥当だと思います。津波災害と原発事故が連続して起こったのは事実ですが、津波を原発事故の言い訳にすることは許されません。
 論文の最大のヤマ場が同項の中の『CF3 「もし福島原発事故の後で無理な避難をしていなければ、3.11後の放射能問題は発生しなかっただろう」』という設問でしょうか。ここで「双葉病院の悲劇」という話が象徴的に引かれます。一ノ瀬氏によれば双葉病院および隣接する介護老人保健施設に入所中の計132人に放射能を過剰に恐れて無理な避難を強いたがために3月末までに58人もの死者が出たとの悲劇(NHK『救えなかった命 ~双葉病院 50人の死~』によれば436人の患者・入所者、内227人が寝たきり。+40名超のスタッフ。死亡者は50人)です。これを一ノ瀬氏は拙速な避難が生んだ悲劇としますが、この「無理な避難をしていなければ」という評価はあくまで今だからいえることであって、事故を起こして原発から4キロとも5キロともいう至近で放射能が漏れ出す事故が起こり、あまつさえ12日には1号機の建屋が爆発し黒煙を上げるという状況の中、当該原発の吉田昌郎所長をして東日本壊滅をも想定したという状況での判断をどう責めることができるのか?NHKの『救えなかった命 ~双葉病院 50人の死~』を見る限り「避難しない」という選択肢はなく、避難をめぐっては複雑な感情が入り混じる中で判断され行動された事実がうかがわれます。「無理な避難をしていなければ」などというあまりにシンプルな一ノ瀬氏の問題設定を私は修正主義的と断じざるを得ません。
 その後広範囲に福島県で見られた避難問題にしても同様です。刻々と状況が変わり、突発的に状況が悪化することも想像できる中で予備的に危険を避けたいと思う人がいることはたとえそれが放射能に限らず当たり前のことです。当時避難した方や避難を勧めた方、あるいは避難せず留まった方、留まることを勧めた方のあらゆる立場の方のことを今の時点から見て論評してああだこうだいうのは当事者の方々の主体性を否定するような話になりがちではないでしょうか。それはかなり哲学的でないし、それこそ欺瞞なのではないかと思います。
 
 この「CF3」の部分でこの論文の妥当性は損なわれ、あとはグダグダと愚痴を連ねているだけという印象です。「9 議論の混乱」の項の中で校内暴力にたとえてこの「放射能問題」と原発の是非の議論を優先順位の問題として語っておられます。校内暴力が原発、校内暴力を受けてけがは軽微だが心に傷を負った生徒が原発事故の影響下にある福島の人々にたとえられているわけです。これ、かなり無理ありますよね?曰く、この被害者である生徒の心のケアが第一である。要するにこの話の中で校内暴力に相当する原発の問題ばかりをいう反原発運動の正当性は疑われるべき。みたいな話だと思うのですが、このたとえ話にあえて乗って考えれば心に傷を負った生徒のことも大変ですが、校内暴力はまぁとりあえずはっきりと悪と言っていいわけですから、とりあえず基本ラインとして校内暴力を弾劾すること=原発に非を唱えることに特に何の問題もないと思うのです。何よりもこれは優先順位の問題ではなく並行して対応できることだし、対応されてしかるべきことだと思います。さらに言えば反原発運動だけに力を注ぐ人を語っているのか反原発運動だけに力を注ぐ社会を語っているのか、一ノ瀬氏はぼかして語っておられます。これは誰に向けてのメッセージなのかを意図的にボカす……という話法的なテクニックではなくて要するに単にイデオロギー的な愚痴なんだろうなと思います。巨人が負けたからといってブツブツ言うおっさんと一緒でしょう。「放射能問題」と原発の是非の議論を混同すべきではないと熱く語っておられますが、とりあえず問題を混同しているのは一ノ瀬氏自身ではないのかという印象が強いです。
 「13 現状」の中で「あわてて無理に避難する必要はなかった、などという事後的な評価を述べるのは失礼極まりない。」としていますが、それがわかっているならメインテーマでもある「もし福島原発事故の後で無理な避難をしていなければ……」という話が出てくるのか理解できません。単にわかってたら書くなよという話でもあり、引用した「あわてて無理に……」の部分を含む27ページの3ページから15ページにかけては予想される批判を先回りして予防的に書いておけば批判をかわせるだろうという感じしか感じられません。
 
 ほんとうに後半の数十ページは愚痴っぽくて、学歴がどうこうというのではないのですが、東大の先生ともあろう方がどうしたことなのかと思いながら我慢して最後までこの論文を読んでみると、おぼろげながら一ノ瀬氏なりの誠実さというのがたしかにあるのではないかということが透けて見えてきました。それは国家と自身の同一性を志向する感覚ではないかと思うのです。民主主義である以上自身もまた主権者であり、権力たる政府の決定はまた自身の決定であるということなのでしょう。そういう意味で原発の設置に関して他人事のように野放図に批判をすることはどうしてもはばかられるということなのだと思います。原発が否定されることは一ノ瀬氏ご自身を否定されているように感じられているのではないでしょうか。でもそんなこと、そこまで気にしなくてもいいんじゃないかなと思います。
 
 結論文冒頭で「5年生存率」をキーワードに将来5年生きられることが生きるということのとりあえずの基準として示されます。結論では現実的なリスクは無いに等しいのだから、とりあえず放射能問題は終わりにして「福島が、そして東北が、放射能問題から解放され、実はずっと維持していたところの、その美しい姿を顕現させることを、心より望みたい。」としていますが、私が思うにこれこそが欺瞞であり強要ではないのかと思うのです。私も個人的に阪神大震災の被災者となり多くの知人を失った経験がありますが、そこからわかったことは、どこにあっても生きるということは変化の中を生きるしかないということです。震災や津波、原子力発電所の事故などに見舞われることはわかりやすくて大きな変化ですが、そんな大きなトラブルがなくてもどこで暮らしていても変化は常に付きまとうものだと思います。「美しさを顕現させる」という言い方こそがそこで生きる人たちにしてみれば失礼な言い方ではないでしょうか。美しかろうが美しくなかろうが自身の居場所は自身の居場所であり、そこを指して他人が美醜をいうのがはたして妥当なことなのでしょうか。
 
 先述した通り、論文のわりと最初の方、「3 震災関連被害」のところで
 
 CF1 「もし東日本大震災が起こらなかったならば、3.11後の放射能問題は発生しなかっただろう」

 CF2 「もし福島第一原子力発電所の事故が発生しなかったならば、3.11後の放射能問題は発生しなかっただろう」

 CF3 「もし福島原発事故の後で無理な避難をしていなければ、3.11後の放射能問題は発生しなかっただろう」

 との設問が設定されますが、それならばCF1以前に

 CF0 「もし福島第一原子力発電所がなかったならば、3.11後の放射能問題は発生しなかっただろう」

 という仮定も設定されるべきだと思うのです。
 
 
『「いのちは大切」、そして「いのちは切なし」―放射能問題に潜む欺瞞をめぐる哲学的再考―』 一ノ瀬正樹氏(pdf)http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/Ichinose2015b.pdf